礼宮さまと婚約が固まった紀子さんと川嶋家の人々

 ◆大祖父も学習院大教授 父は「交通経済」の権威

 礼宮さまと婚約されることになった川嶋紀子さん。その川嶋家の先祖や親族には、学者が多い。

 父・辰彦氏は、昭和15年4月、東京・豊島区で生まれた。地元の中学を卒業、都立戸山高校から東大経済学部へ。大学院修士課程を修了後、米ペンシルベニア大に留学して博士号を取得、47年に同大助教授となった後、翌年帰国して学習院大経済学部助教授、51年から同教授を務めている。

 専攻は「交通経済学」と「計量経済学」。

 辰彦氏は、「交通経済学」などでは国内の若手の第1人者といわれており、「道路交通需要の将来予測」「都市化現象と都市圏分析」など、50をこえる著書、論文がある。

 また、世界16か国の経済、社会学者が集まって、環境、人口問題などを研究している「IIASA(国際応用システム解析研究所)」にも所属、52年から54年まで、オーストリア・ウィーン郊外のラクセンバーク同研究所本部で主任研究員を務めた。

 辰彦氏は男3人、女2人の5人きょうだいの二男。兄は1歳で亡くなった。弟の行彦氏は東京国際大の教授(流通経済論)で、現在は同大米国分校での講義のため、米・オレゴン市に家族4人で住んでいる。

 また、長姉の宮子さんは小菅茂雄白梅学園短大教授に嫁ぎ、神奈川県鎌倉市に在住。すぐ上の姉、豊子さんは、佐藤英一郎専修大教授(故人)と結婚、同県茅ヶ崎市に住んでいる。

 教壇の辰彦氏は、「いつもニコニコしてわかりやすい講義をしてくれる」と学生にも評判。教え子の1人は、「『笑っていればみんな幸せですから、笑っていられるように皆さんにAをあげましょう』『授業より大切だと思うことがあったら、それを優先してください』と、大事な点だけを繰り返す講義です」と話している。

 研究室には、英語、ドイツ語などの文献が並び、パソコンやワープロも備えられていて、研究の相談に訪れる学生が多い。

 一方、紀子さんの母、和代さんは、静岡市の出身で、2人姉妹の長女。父嘉助さん、母栄子さんとも同市に健在だ。和代さんは地元の高校を卒業して昭和女子大に入学、辰彦氏と知り合い卒業直後の39年10月に結婚した。「明るくておっとりした反面、面倒なこともいとわない働き者の一面もある」と知人の1人。辰彦氏が論文の整理で忙しい時などは、一緒に研究室にこもり、夜遅くまでワープロ打ちの手伝いもするという。

 父方、川嶋家のルーツは和歌山にある。江戸時代から続いた庄屋で、広大な田畑を持ち、小作人も大勢抱えていた。

 ところが、明治初期に当主となった庄右衛門氏(辰彦氏の大祖父)には、娘2人しかいなかったため、跡取りを探すことになり、同氏の目に留まったのが、当時高等師範学校(現筑波大)を卒業したばかりの庄一郎氏(紀子さんの大祖父)だった。

 庄一郎氏は、和歌山市内から車で2時間ほどの有田郡安諦(あで)村(現清水町)の農家の出身。

 明治27年、庄右衛門氏の長女・志まさんと結婚し、川嶋家にムコ入りした。その後、富山、滋賀などの師範学校教諭を経て、高等師範学校研究科(現大学院)、東京外国語学校(現東京外大)ドイツ語科を卒業。明治34年から2年間、学習院大教授兼初等科長を務め、さらに佐賀、奈良の師範学校長を歴任して、大正9年には和歌山市の教育の総責任者「視学」となった。

 その長男が、辰彦氏の父・孝彦氏で、佐賀中学から一高、東大法学部に進み、高等文官試験(現国家公務員上級職試験)に合格、大正12年に内務省入りした。

 地方事務官、地方警視(現在の県警幹部)として長崎、広島などで勤務したあと、内閣書記官を経て昭和8年、内閣官房記録課長に。東郷平八郎元帥の葬儀委員を務め、同11年には内閣官房総務課長となった。

 孝彦氏は昭和22年、内閣統計局長で退職、33年2月に61歳で亡くなったが、妻・紀子(いとこ)さんは、辰彦氏の姉に当たる長女・宮子さん一家とともに、鎌倉市内で暮らしている。

 礼宮さまと婚約される紀子さんは、字は祖母と同じだが、「きこ」と読む。この名前には父・辰彦氏のふるさと紀州(和歌山)への思いが強く込められている。

 本籍地も「和歌山市本町8の14」。戦前まで、祖父・庄一郎氏の広大な屋敷があった所で、現在は土地がすべて売られ、住宅やアパートなどが建っている。

 それでも、辰彦氏がこの地を本籍としているのは、学習院大の教授、視学にまでなった庄一郎氏に、学者としての自分の“ルーツ”を見ているからだろう。

(1989年8月26日 読売新聞)

引用元http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_89082602.htm